緑 帯
茶 帯
高校生の時 大山倍達総裁の超人的な強さに憧れ 極真空手をやりたかったのですが 当時 近くに極真会館の道場がなく 仕方なく空手を教えてくれる所だったらどこでもいいやと思い 近くの寸止め空手の道場に 弟と2人で通い始めました。
稽古はとてもきつかったのですが ある日 事件が起こりました。小さな道場なのに やたらと黒帯(しかも2段、3段、4段)が多く その中に たまにしかこないのに 威張り返って後輩達をやっつけては 自慢している先輩(3段)と 約束組手をやっている時のことです。
3段の先輩が私に向かって横蹴りをし それを外受けで受けるのです。3段の先輩が右横蹴りをした瞬間 私は左外受けをすると そのまま先輩は 足から崩れ落ち 立ち上がることができませんでした。後で聞いてみると その先輩は 右足を骨折したそうです。
当時 私は入門して1年たらずでしたし受けたとき何の手ごたえもありませんでした。それなのに 3段の黒帯が1年足らずの高校生に約束組手くらいで このありさまでした。
いっぺんに この空手への情熱が薄れて 道場から足が遠のきました。それから20年 ふと本屋である雑誌より 極真空手の道場が近くにあることを知り 高校の時の極真空手への情熱が湧いてきました。
またその頃 長男が生まれ
「父親としてこの子に誇れるものがあるだろうか?」
と考えはじめたのです。
「自分には 父親として誇れるものが何もないではないか。精神的にも肉体的にも鍛え直さなくてはいけないのではないか。」
と思い 37歳を前にして 極真会館に入門することを決意しました。まわりの者は
「いい年をして 極真空手なんて 怪我をするからやめた方がいい。」
「どうせ 続けられないよ。」
と言ってましたが そんなことには耳をかさず かまわず電話で道場見学のお願いをしました。極真会館 北九州支部の入り口で道場見学のため待っていると いかにも強そうな大柄な若い者が 何人も 道場に入っていくのを見て
「このまま 帰ってしまおう。」
と何度も思う気持ちを抑えながら 道場の前でうろうろしたすえ 勇気を出して 入って行ったのです。道場に入ると 大山総裁の写真が飾ってあったりして 高校の時、空想した空間がそこにあって自分が20年前の熱い思いの頃にタイムスリップしたようでした。
道場生も予想に反してとても親切で 師範もとても熱心にしかも熱く指導されていて その日のうちに入門書にサインして帰りました。これで 高校生の時からの 第1の夢であった 極真会館に入門できたのでした。
入門して まず心がけたことは決して手を抜かないということでした。初めからペースを考えて最後まで稽古ができるよりも 途中でついていけなくてもひとつひとつの稽古を力をセーブせずにやるほうが大事だと思ったからです。
最初のころは実際に移動稽古が終わる頃には吐きそうになり頭の中が真っ白になって今にも倒れそうでした。
これも1〜2ヶ月すると平気になってきます。極真の稽古は 柔軟(ストレッチ)、基本稽古、移動稽古、型、スパーリング、組手と行いますが 最初の柔軟(ストレッチ)は15分位かけて十分行いますので 私より先輩で年上(50歳位)の方は
「これだけでも中年にはとても効果(健康維持)がある。」
と言っていました。入門して3ヶ月以上たつと 昇級審査を受けることができます。
昇級審査は筆記テスト、基本稽古、移動稽古、型、約束組手、柔軟、拳立て(50回)、棒とび(10回)、ボール蹴り(190cm、210cm、230cm)、逆立ち歩行、自由組手などです。
このなかで自由組手が一番の難問でした。というのは白帯は 組手などまだほとんどやった事が無く この審査で初めてというのがほとんどでした。
白帯といえども極真の場合は直接打撃制なので ボーとしてると のばされます。実際 のばされて気絶したというのを何度も見てきました。私の場合 この組手の相手はひとつ上の橙帯で年齢は20代後半 体型は私と同じ位の人でした。やる前はとてもドキドキし怖かったのを覚えています。
自分の名前が呼ばれ前に出て 礼をすると組手が始まりました。
気持ちだけでも絶対負けまいと思い 前に出て組手をやっていると うまい具合に右上段回し蹴りが相手の顔面をとらえました。
審判が「技あり」をとり 試合を続けると今度は相手の突きが私の水月に入り 「技あり」をとられました。
こうして初めての組手は終わりました。その夜 左わき腹が痛くて眠るのに苦労しました。組手の際 左ろっ骨にひびがはいっていたのです。
当時 自分の好きな空手をやって 「ろっ骨にひびがはいった」などとは女房には言えずに 子供を抱く時 苦痛に耐えながら我慢してたのを思い出します。こうして無事?白帯を卒業して 橙帯になったのでした。